由緒・沿革

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その歩みの中には、数え切れない多くの方々が、親神様との御神縁を戴かれ導かれてこられましたことは申すまでもありません。それはすなわち、この百年の歩みが、親神様の御恩頼と、そしてまた、その御神縁を戴かれた方々の〝みかえし〟の歩みを表しているということでしょう。そして、この百年の歩みを振り返ってみますと、〝みかえし〟に努められた人々の心が、ただひたすらに親神様を祈る敬虔で真摯な心として写し出され語りかけてまいります。その親神様の御神蹟と〝みかえし〟の心を記し置き、次世代に語り伝えていくことは、現在の私たちの大切な〝みかえし〟といえるでしょう。

明治35年6月2日には、本社の出雲大社から御分霊をお迎えして、千家尊愛公の御親祭のもと、御分霊御鎮座祭が厳粛に斎行され、いよいよ大神さまの御神光を戴いたのである。

その時永田金一大人は初代所長を拝命し、当時吉部教会所所長であった大谷豊太郎大人が島地教会所の監督を拝命した。御分霊御鎮座祭頃より島地教会所の目まぐるしい発展は、とくにこの大谷豊太郎大人の活動によるものといっても過言ではない。大谷豊太郎大人は島地教会所の発展と『お道ひろめ』の為に挺身され、教会所の教勢はさらに発展した。

初代管長千家尊福公を始め、御歴代の管長様の御来臨を仰ぐに至り、同年8月2日には分院昇格(周防分院)認可を受け、豊太郎は分院長を拝命した。

周防分院の所蔵する『出雲大社周防分院沿革誌』には、明治14年旧7月14日から16日まで、千家尊紀公が周防分院のある島地村の永田金一氏方に御滞在されたと箇条書きされております。尊紀公が、徳地町に来られたという記録はこの『沿革誌』以外には寡聞にして知らないが、当時尊紀公は出雲大社の布教機関である出雲大社教の前身、出雲大社教会の副教長として大国主大神さまの"みおしえ"を弘めるために全国に布教活動を行われていたのであり、当時の御布教を伝えているのではないのでしょうか。

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由緒・沿革画像3
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御祭神

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  • 大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)
  • 天穂日命(あめのほひとみこと)
  • 天照大神(あまてらすおおみかみ)
  • 龍蛇神(りゅうじゃしん)